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人生をより低迷させる旅コミ誌「野宿野郎」を紹介するページです。

ちょっと時差ボケ 第1回

ロスト・イン・アコモデーション

 ガイドブックのない旅にあこがれる。
 井上陽水さんは思いつきで何の準備もなく空港へ行き、空港のカウンターで航空券を(正規料金で!)買い、海外に旅立つことがあるということだが、そこまでいかなくてもたいした計画も立てずにガイドブックも持たずに旅立ち、その日の気分で適当な乗り物に乗り、気に入ったところで降りて、地元の人の話を聞きながらどんなふうに過ごすか決めて…。
 そんな旅にあこがれる。もう何度も旅をしているのでだいたいのことはその場に行ってしまえばなんとかなるものだということは分かっているのだが、旅の前は必ず計画を立てる。もちろんああでもないこうでもないと計画を立てるのがおもしろいというのもあるが、とりあえず事前に分かることは不確かなものでも調べておかないとなんとなく不安になってしまうのだ。
 ぼくの旅は長期の場合が多いので計画といってもそんなに精密なものではないが、どこへ行くか、どういうルートで行くのが効率がいいか、バスでで行くのか、列車で行くのかなどいろいろと考える。
 そして計画を練るときにもうひとつ気になってしまうのが宿のことだ。
 ぼくのはじめての海外旅行はまず香港へ行き、船で上海に渡り、北京からシベリア横断鉄道に乗ってソ連経由でヨーロッパに行くというものだった。当時はまだソビエト連邦があったころで、まっとうにシベリア横断鉄道に乗ってソ連に入るのは事前の手続きが大変だった。
 日本でまずすべての旅程を決めて移動と宿泊を旅行代理店を通して予約して料金を前払いしてからでないと査証(ヴィザ)が出ない仕組みになっていて、時間はかかるし、当時は関西に住んでいたのでソ連の領事館に通ったのだが、やたら辺鄙なところにあって入館前には領事館前派出所の警官に職務質問されるし、領事館の中のピンク電話から旅行代理店に質問の電話を入れるとその電話にやたら雑音が入るし(!)、もちろんレーニンさんの像はあるし、怪しい雰囲気がまだいろいろあった。
 列車は北京から出発するのだが、まず出発前夜のホテルを予約させられたのでそれまで泊まっていた北京のドミトリーの安宿から一晩だけ泊まるためにまともなホテルに移動しなければならなかった。
 北京から出発した列車はモンゴルを東に迂回する路線を通ってソ連に入る。当時いわゆるシベリア横断鉄道と呼ばれていたものには、ぼくの乗った北京からモンゴルを避けてソ連に入ってモスクワまで行くものと、北京からモンゴルを通ってモスクワへ至るもの、そしてソ連のナホトカかハバロフスクからモスクワまでいくものの三種類あって、同じ車両に乗って行ける路線としてはぼくの乗ったルートが世界最長だったはずだ。
 とはいってもその時はほぼ中間地点のイルクーツクで途中下車して一泊して、翌日また別の列車に乗ってモスクワまで行った。たしかイルクーツクまで三泊四日、イルクーツクからモスクワまでも三泊四日で、北京からモスクワまで通しで乗ると一週間かかったはずである。もちろん列車にシャワーなどはない。
 このときにそれぞれ一泊ずつしたソ連のホテルはその後の長いぼくの旅の歴史の中でも最も高いホテルだ。これらのホテルは日本で査証を取る前に予約して料金を支払わなければならなかったわけだが、当時のソ連は外貨をかせぐためにデラックスなホテルしか予約できないシステムになっていたのでイルクーツクでは七十ドル、モスクワでは百四十ドルのホテルを予約させられたのだ。
 モスクワでは赤の広場に近いホテルの角部屋の広いダブルルーム、一見ゴージャスに見えるが施設はかなりがたがきていた。それでもぼくのホテルは当たりだったようだ。モスクワの別のホテルに泊まっていた日本人は同じような料金を払わされていたにもかかわらずバスルームからはお湯も出なかったといっていた。四日間シャワーのない列車にゆられてやっと着いた百ドル以上のホテルでお湯も出ないなんて…。
 当時から北京まで行けば、ホテルの予約をしなくてもソ連の通過査証(トランジット・ヴィザ)が簡単に手に入り、モスクワまでの列車の切符も日本で予約して払う値段とは比べ物にならないほど安い値段で買えたのだが、「地球の歩き方」はすでにあったもののインターネットなどない当時はそのあたりの情報を入手する手段はまだ旅の初心者だったぼくにはなかった。知っていれば迷わずそっちを選んだだろう。
 ただ通過査証でソ連を抜ける場合は(滞在許可がぎりぎりの日数しかないので)途中で降りてホテルに泊まっているひまはなく、モスクワまで通しで一週間シャワーのない列車に乗り続け、モスクワで自力で宿を探し、またすぐ列車に乗って出国しなければならなかったらしい。
 このソ連の旅は例外でぼくの旅のスタイルはだいたい安宿に泊まり歩くというもので、宿を予約したという経験もこのときだけだ。
 西ヨーロッパや北米を旅したときに泊まっていたのはほとんどがユース・ホステルだった。これらの地域でユース・ホステルがなければ同じ予算で行けるところはかなり限られたものになってしまうだろう。だいたいがキッチンの設備があるので自炊できる。西ヨーロッパや北米ではほとんど自炊して食事していたため、各地の名物料理というのをあまり食べられなかったのは残念といえば残念なのだが、レストランに行っていればすぐに旅費がなくなってしまって行きたいところにも行けなくなってしまったはずなのでこれはあきらめるしかない。
 ユース・ホステルはだいたい似たようなところが多いのだが、中にはちょっと変わったところがあって、例えばスウェーデンのストックホルムの港には船のユース・ホステルがある。もちろんもう船としては使用していないのだが、中を改造して泊まれるようにしてある。
 カナダのニュー・ブランズウィック州、キャンベルトンには灯台のユース・ホステルがある。現役で現在も使用されている灯台と同じ棟にユース・ホステルがあるのだが、現役の灯台ということで中に入ったり、上ったりはできないのであまり意味はないのだが。
 ぼくが今までに泊まったユース・ホステルで一番の変わり種は同じくカナダのオタワのユース・ホステルで、ここは元監獄の宿である。
 中には鉄格子のついた手を広げれば届くほどの幅の狭い独房が並んでいる。その独房を隔てている壁を二つ三つぶち抜いて広げた部屋に二段ベッドが二、三台入っていて、そこに寝泊まりする。並んだ鉄格子の扉のひとつが開いていてお客はそこから出入りする。鉄製の扉を開け閉めするたびに扉はきしみ音を立てて閉まりそれが通路に響く。建物の上には昔使っていた公開絞首刑台があり、縄の輪っかも付けてある。
 そのユース・ホステルに入所して監房で寝ころんでいるうちに気がついた。ここは独房二つまたは三つ分のスペースに二段ベッドが二つまたは三つ入っている。つまり昔は囚人が二、三人しか入っていなかったところに今はその倍の四人から六人を泊めているのだ。我々の扱いは囚人以下なのか! しかもお金まで払っているのだ。
 週に数度、一般の人も参加できる無料の所内観光ツアーが行われる。監房の鉄格子は昔のままで通路から中は丸見えなので一般の観光客がぞろぞろと通路を通って我々収監者を見学していく。
 お化けが出るといわれている監房もあって、そこに一晩泊まると次の日はただで泊まれるらしい。お化けの監房はともかく普通の監房でも気持ちが悪いといってすぐに出所していく人もいた。鉄格子のきしむ音などはあまり気持ちのいいものではないし、想像力豊かな人は昔同じ場所にいた囚人のことなどを考えてしまうのかもしれない。ぼくは面白くて気に入ったのでオタワではずっと厄介になっていた。
 東ヨーロッパにはユース・ホステルは少ないが、全般に物価が安いのでふつうの宿に安く泊まることができる。でも宿の絶対数が少ないところが多く、そういう国ではプライヴェイト・ルームというシステムのあるところが多い。
 プライヴェイト・ルームというのは空き部屋のある一般の家庭が旅行者に部屋を貸すシステムで、観光案内所などに登録してあるのを紹介してもらう場合が多い。イギリスなどのB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)に近いが、東欧の場合は本当に一般家庭の空き部屋に泊まらせてもらう感じに近いので当たり外れはあると思うが、地元の人のうちににおじゃまできてなかなか楽しい。
 ハンガリーのブダペストではプライヴェイト・ルームもかなり商売として成り立つようになっていて客引きまで行っているところが多かった。ぼくの泊まったプライヴェイト・ルームにはこの頃旅の途中の日本人が住み込んでいて、ベッドと食事だけもらって無給で客引きなどの「番頭」業務をしていた。
 そこには他にも面白い日本人の旅人がいて、我々から「ホームレス山田」と名付けられたその男はぼくがブタペストの駅に着いた時に、プラットフォームにぽつんと立っているのを見かけていた。しかしその時は声を掛けるわけでもなく通り過ぎた。
 そのプライヴェイト・ルームに投宿した後、この宿の番頭さんも客引きの際に彼に駅で会い、彼は我々の宿にやってきた。そして彼は驚異の超異次元体験を我々に聞かせてくれた。
 ホームレス山田はその前日にブダペスト東駅に着いた。ブダペストにはプライヴェイト・ルームの数が多いので過当競争になり駅での客引きが当たり前になっている。彼はある客引きと交渉して、その人が紹介するプライヴェイト・ルームに泊まることにした。そこで数日分の宿代を払い、彼はさっそく町へ観光に出た。
 夕方、彼はその日の観光を終え自分の宿に帰ることにした。しかし彼はこの時すでに知らぬ間に恐怖の超異次元空間にはまり込んでしまっていたのだった。彼はいくら歩いても自分の宿に帰りつけなかった。いくらさがしても歩き回っても自分の宿を見つけることはできないのだった。彼のまわりの空間がねじれてしまったのか、知らぬ間にパラレルワールドにワープしてしまったのか、知らぬ間に宇宙人が彼を拉致し記憶を消してしまったのか、あるいは彼の宿は消滅してしまったのだろうか…。

 彼は迷子になってしまったのだった。

 彼は自分の泊まっているプライヴェイト・ルームの場所が分からなくなってしまったのだ。彼はこの異国の町で迷子になり、完全にパニックにおちいり狂ったように町を歩きまわったが、自分の泊まっている場所、そしてその時にもっていた手荷物以外のすべての荷物が置いてある場所は見つけられなかった。
 彼がこの日、自分の宿を見つけることを断念した時には夜もとっぷりと暮れていたため、彼は小さなデイ・パックを持っただけで百ドル以上する高級ホテルに泊まったそうだ。
 その次の日、つまりぼくがこの町に着いた日、東駅でぼーっと立っている彼をぼくが見掛け、その後番頭さんが声を掛けた。彼がそこにいたのはそこで待っていたら前日客引きをしていた男がまた客引きにそこへ来て、彼に会えるかもしれないと思ったからだ。
 彼はこの日も宿を見つけられずに(百ドルのホテルではなく)我々のプライヴェイト・ルームに泊まり、次の日ついに二日ぶりに自分の宿を発見した。彼が絶対の自信を持ってそこではない、この通りではないと信じて疑わず探していなかった通りに彼の宿はあったということだ。
 この話にはまだちょっとしたオチある。
 彼は日本で地図を製作している会社に勤めていたのだ。確かに彼は自分の宿のまわりのことだけは詳しく覚えていた。
 バルト三国にいったのは一九九三年のことだった。
 エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国が独立したのは一九九一年のことでそのときから注目はしていた。旅人は新しく独立した国や個人旅行が許されるようになった国などがあると行ってみたくなるものなのである。しかし当時バルト三国の旅の情報は少なく、英語のガイドブックにようやく少しずつ情報が載りはじめたというところだった。現地の近くまで行って何の情報も入らなければ行くのはあきらめようと思っていたのだが、ポーランドのワルシャワまで行くと少しずつ情報が入り始めた。ユース・ホステルには同じくバルト三国へ入ることを計画している女性がいたし、掲示板にも情報が張り出されていた。そしてそこのユース・ホステルに滞在中にバルトから帰ってきた旅人がきたことによりぼくはバルト三国に行くことを決めた。
 リトアニアの首都ビリニュスは一番高い建物が教会の尖塔というような田舎で、ラオスのヴィエンチャンが大都会に見えるほどといえば東南アジアをよく旅する人たちには分かりやすいかもしれない。
 ラトヴィアの首都リガはかなりロシアっぽい都市で、この三国ともそうだったが花屋が多かったのが印象に残っている。
 エストニアの首都タリンは三国の中では一番進んでいる町だった。フィンランドが海を挟んですぐ向かいでそこのテレビやラジオを常に見て聞いていたというのも関係があるらしい。エストニア語とフィン語は同じ語族に属していて、互いに理解し合えるほど似ているらしい。それらのお手本を長年見ていただけあってか、独立後の彼らは変化も早かったようだ。独自のなかなかかっこいいファスト・フードの店がすでにありパスタやアイスクリームなどを売っていた。
 タリンの旧市街はとても美しかった。小さな丘の上に立っている坂の多い旧市街はとても絵になった。もう今はかなり観光地化されてしまったと聞いているが当時はまだそれほどでもなかった。
 旧市街を観光中、日本人の若い旅人にあった。彼はフィンランドから船で入ってきたということだったが、彼のこの国の情報源は日本で買った「ソ連」のガイドブック(バルト三国に関するページが数ページ含まれている)だったので安宿の情報などは全くなく、来た時は安宿をかなり探しまわったそうだが、見つからなかったので仕方なく旧ソ連系の国営ホテルだったところに大枚五十ドルも払って泊まっているとのことだった。
 彼はその日のうちにフィンランドに帰るということだったので、ぼくが四十クローニ(約三百六十円)の宿に泊まっていることは内緒にしておいた。

 ガイドブックのない旅にあこがれる。
 たいした計画も立てずにガイドブックも持たずに旅立ち、その日の気分で適当な乗り物に乗り、気に入ったところで降りて、地元の人の話を聞きながらどんなふうに過ごすか決めて…。
 でも多分次の旅をするときもいろいろ調べて計画を立ててしまうに違いない。
(本誌1号より転載)